手のひらの多元宇宙ゴマ

手のひらごとグルングルン回転します

ミッドサマー 信仰が試される物語

前から気になっていた映画がようやく日本で公開ということで、映画ミッドサマーを観てきました。

前日にアマプラで観たスマホ落とし1作目が面白かったので30分で劇場に行き2を観て、テンションが上がったのでそのまま1917も敢行。普段なら一日に映画を続けて2本も観ると肩凝りから頭痛がしてくる体質なのですが、良作に恵まれとても良いコンディションのまま翌日を迎えることができました。良い映画は健康にも良い、そう思いながら期待とともにミッドサマーを観に行ったのです。

 

ありえん疲れた。しんどい。快晴が気持ち悪い。映画を1本観ただけなのに…

前日の映画3本より体感時間が長かったし疲労度は数段上である。良い映画だったことは間違いないのだが、良い映画が健康にも良いとは限らないのだ。

 

胃もたれしたので消化のためにこの文章を書いています。ただの感想を推敲せず書くのでおかしい部分も多々あるでしょうが、流せる方は読んでいただければと思います。

未鑑賞者に向けた文体なのに当然のようにネタバレがあります。ご注意ください。

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ストーリーについては家族が死んだメンヘラ女が彼氏の友人グループとともに友人の一人の故郷であるスウェーデンの田舎村ホルガの夏至祭に参加しに行って、重い彼女にウンザリ気味だった彼氏と破局する話です。

監督(上部画像人物)が彼女と別れたのがきっかけでこの映画が作られたとのことですが、どんなフラれ方したのか心配になりますね。

 

映像としては、とにかく明るく、美麗で、華やかなものが多いのが特徴で最悪です。舞台が自然の多い田舎で花咲く草原が広がり、白夜の地方なので一日中昼間なんですよね。日本は毎日太陽が落ちて夜が来ることにこんなに感謝して眠った日はありません。

 

細かく何が起こったのかとかモチーフの意味はどういうのだみたいなのは割愛します。気になる方は観てください。

 

何の話がしたいのかと言うと、この映画はとにかく不安を煽って来る映画なんですよね。分類するならスリラー系のホラー映画なんでしょうが、悪霊が突然出てきてビックリ!みたいなものは無く、延々とこちらの正気を削ってくるギミックボスみたいな映画です。

じゃあ何が怖いのって話なんですが、ホラーだとよく「生きた人間が一番怖い」みたいなのがあるじゃないですが、そういうのとも違うと思ってます。確かに「何を考えているのか分からず、何をするのかわからない人々」的な恐怖はあるんですけど、ボクが怖いのは自身の倫理観なんですよ。

 

劇中では村の祭りの最中に主人公一行が死亡フラグを立てまくります。祖先を侮辱する行いをし、念押しされた禁を破り、「あっこいつ死んだな」というありがちな予測を立てることができるのですが、ミッドサマーはこの方法で観客という全てを客観的に見ることができる存在に対してホルガのルールを刷り込んでいきます。

(村のルールによって)裁かれるべき、(村の倫理観で)死んで当然、の人間が作られていくわけです。ボクはこの手法にハマったため途中まで「そりゃ(そんなことすれば)そう(殺されるに決まってる)でしょ」とB級スプラッタホラーを観ているテンションのつもりでカルトの思考回路で物語を観ることになったのです。

そんな中で主人公の彼氏は儀式に対して「そういう文化なんだから尊重しなくては」ともっともなことを言うのです。彼は村の怒りを買う行為をするでもなく、少なからず敬意を持って過ごしていきます。ボクも「この行動パターンなら生き残れるんじゃない?」と思って観ていましたが、気づきました、「この村そういうの(死亡フラグ)関係なく全員殺すじゃん」と。べつに禁忌を破ったり暴いてはいけない秘密に触れようとしたりしようが関係なかったのです。これは儀式なので、こちらの言葉が通じない(聞く必要がない)集団相手ですから、どれだけ敬意を払っても意味なんてなかったんですね。どれだけ地雷を踏まないように歩こうが、道の行く先が処刑台なら同じことです。

同時に彼の「尊重」という思考がいわゆる「文明人」による上から目線であることにも気づきました。「そういう(野蛮な田舎の部族の)文化なのだから(我々進んだ文明人は)尊重しよう」と。

ホルガで生まれ育った人たちにとってはホルガのルールと信仰が常識です。私たちもたまたま文明的(だと思っている)時代と地域に生まれただけで、常識を刷り込まれているのは同じなのですから、他人の常識に基づいた他人の行動を「悪」とするのは自身の常識に他なりません。では自身の常識の正当性は何が保証してくれるのでしょうか?「常識は常識なのだから」という文明という名の宗教なのではないか?と考えてしまいました。ほとんどの文明人が思春期の間に折り合いをつけるか、そもそも気づかないような概念をまんまと掘り返されてしまったのです。「無宗教な現代人」であったつもりの自分が「文明を信仰している社会というコミューンの構成員」であることを突きつけられた気がしました。

 

帰宅後、ツイッターでは恒例の大喜利が繰り広げられています。(ボクのTLだけでしょうか?)

今回のホットなネタは「ホルガにTRICKの山田と上田を送り込んだら」を筆頭とした「もし○○がいたら」系のネタでした。ほとんどの人はいつも通り楽しんでいただけなのでしょうが、気が滅入っていた私はどうも勘繰ってしまいます。「そもそも謎も何もないのだから探偵がいても意味がないのでは?」ホルガの人々は外部の人間に知られると進行に支障が出ることは隠していますが、それらを外部の人間に暴かれたところで不利益がある人物はいません。邪魔をしようが予定通り殺して贄にするだけなのですから。ミッドサマーにはカルトの教祖として私服を肥やすTRICKのエセ超能力者もいなければ、村の儀式を利用して私的に殺したい奴を集める金田一少年の事件簿の犯人みたいなやつもいません。知性を発揮して村人を啓蒙することで文明の価値観を与える解決法は存在しないのです。

文明的解決が不可能な以上、村を訪れた人間には飲み込まれるか、逃亡するか、村を完全に破壊するかしかありません。当然大喜利では村を破壊するためのエージェントが推挙されていきます。

しかし私にはこの行動が「理解不能なもの、人の力の及ばないもの、解決し得ない不安」から救ってくれる存在を作り上げる、信仰行為そのものなのではないかと感じました。武人の介入によって恐怖の対象を打ち砕き、探偵とセットで存在するありがちな犯人の創造で既知の概念へと格を落とし、笑いの種とすることで映画から受けた不安を払拭するためのセラピーが行われているのではないか?と。救世主が創造される光景を目の当たりにしているのではないか?と。自分は今までも自覚無しにそういった方法で心の均衡を保ってきていたのではないか?と。

 

フィクションにはフィクションをぶつけんだよの精神で戦えるうちは良いのですが、これが現実の不安や困難、不幸が襲いかかってきたとき、親戚や親しい人間にもっともらしい正解や全てを解決してくれる救世主を用意されたら自分はフィクションを鑑賞した時と同じように拒むことができるのだろうか。映画はフィクションでも現実にカルトが存在することは確かなのです。

 

「あなたは神を信じますか?」とドアの前の勧誘に尋ねられたらNOと言うことができるかもしれません。「あなたは自分のいる世界が正しいと信じきれますか?」ミッドサマーはそう言って私の信仰を揺さぶってくるのです。

 

自分でも何を書いてるのかよくわからなくなったのでここで終わります。散々なことを書きましたが映画としては一見の価値があるものだと思うので、未見の方は興味があったら自己責任で観てみてください。

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